先月の短歌(2018年5月)

さいきん短歌をはじめた。

まとめる場所として、またこのブログを使ってみる。

 

…………

 

スキー場
白く染まった背景に
めでたく映えるあなたのほっぺ

 

「耳たぶの形が左右違ってる!」
そんなことさえノーベル賞

 

すきま風ふさぐ工夫も面倒で
ただよりあって過ごしたかった

 

砂の中やっとみつけてくれたのね
もうはなさないこのままずっと

 

受け止めて
マンションの位置エネルギー
あたしあなたの上でいきたい

 

ジャンプしたその瞬間にバラバラの砂粒と化すバレエダンサー

 

グヮングヮンと環境音が鳴り響く我の頭の空洞のなか

 

日曜の夜に息継ぎする人の顔に浮かぶはめしうとの色

 

文庫本片手にそっとため息をつきて車窓の外をながむる

 

地下鉄のホームに響く下駄の音
D・C・B・C 繰り返すリフ

 

虫けらのごとき人々各々に帰る家ぞある
思い出ぞある

 

フラットに揃えし君の前髪や

眉毛にかかる長さいとしき

 

こまぎれのバターのかけらなめとって

カチャンとナイフ置いたあの朝

今日の一曲:大槻ケンヂ - Guru

書かないとそれはそれでいつまでも書かないものだ。

 

オーケン絶望先生から遡って特撮、筋少と知っていった。思春期にハマるというのもそのまますぎて恥ずかしい。

いろいろ好きな曲はあるが、いちばんを選ぶならベタだがこれになる。メロトロン、エディのピアノ、くぐもったレコードノイズからサビになって迫ってくるリズム。そしてやはり、オーケンの声、歌詞。

 

昔ある歌手は「僕と君はひとつじゃないって 気がつかなくちゃね」と歌った。その歌手が「お前だけはわかってあげなさい」と語る。

 

最近のオーケンとは少し距離がある。この頃は本人的にはしんどかっただろうけど、とても好きな時期だった。

今日の一曲:the band apart - 夜の向こうへ

ギター×2、ベース、ドラム、ボーカル、コーラスの基本的な構成。クリーン~クランチのギターサウンド、16thフィールにのっとったアイデア豊富なリズム隊、魅力的なボーカル。シンプルなコード進行をカラフルにプレイしている。

聞いているだけで幸せな気持ちになる。メンバーどうしが友達でいるための手段としてのバンドだそうだ。こんなふうに鳴らしていたいものだ。歌詞の「家々」は気に入らないけれど、そもそもしっかり聞かせていく曲でもないだろうし。

つい数年前まで知らなかったけれど、活動自体はかなり長いようだ。練れた音のおしゃれなバンドだ。出音のいちいちにセンスがあふれている。

こういうのがトータルで聞かせていく力なのだろうか。

月ごとの話:2017年2月

さいごのいくつかは「自分がやりたいなかでできそうなもの」というくくりを忘れてしまっていた。そういう意味では悔いが残る。しかしとくに平沢進は今聞くと共感するところ大だったし、いい機会になった。

ブログのおかげかわからないが、今日ふと自分の音楽像について表す文を思いついた。「暖かいハーモニーと冷たいリズムの間でため息をつくメロディ」、そんなふうなものがひとつのビジョンかもしれない。

ただ、いわゆる音楽の三要素で分析しようとしても、そんな個別的には現実聞いていないのである。もっと聴取の実像に沿った断面をみるべきかもしれない。サウンドという大きなくくりで切り取ったり、どんなときに聞いたかなどの付帯状況もあわせみてよさそうだ。とくに、いま作ろうとするのは歌モノが前提なので歌詞について考えてみる必要もあるだろう。

一週間のまとめ:2017年2月22日から26日まで

時間の流れがほんとうに光速だ。

今週はメロディについて考えてみたが、涙そうそうで言及したほぼペンタのみのポップスの可能性、ラブリー☆えんじぇる!!について考えるなかでのメロディ構造分析でだいたい持てるすべてを出しつくしてしまった感がある。

メロディのなかにもリズムがあり、ハーモニー内での役割がある上、それがどんな音色のなかで鳴らされるか、歌モノならどんな歌詞が乗るかによってもまったく変わってしまうものである以上、何気に単独で語るのは難しいフェーズだった。むしろカッワーリーだとか、民族音楽的な方向がよかったのかもしれない。

しかしまあそのおかげか、ホルモンや平沢、赤とんぼなど記憶の片隅にあったものをひっぱってこれたのでよしとしよう。

今日の一曲:山田耕筰 - 赤とんぼ

ふと思いつくと、この曲も案外僕にとって大事な気付きを与えてくれている。

まずひとつに、「ペンタトニック」という概念・言葉を知るきっかけになった。なんとなく、ドレミファソラシドがないと音楽にはならないと思っていたその前提がひっくり返される感覚だった。

次に、日本語の高低アクセントにメロディを合わせるという発想をもたらした。これは今ではだいぶゆるくとらえているけれど、それでもひとつ重要な指針だ。

そして、西洋を知った日本人が日本の音素材で西洋音楽として読めるものを作ろうとした、その事実にじんと来る自分がいる。かつては作り物、偽物として忸怩たる思いをも抱いたが、もうそれでいいと思えるようになった。

「日本人」の音楽的「ふるさと」は、文部省唱歌でしかないのかもしれない。

今日の一曲:平沢進 - 世界タービン

メロディということで思い出したのが彼だ。とにかくフレーズが長い。歌うと決めた部分はぐいぐい来る。言動や演出をみているとナルシシストっぽいけれど、そもそも曲じたいもそれっぽい。

個人的にはここまでの長さは好きではないのだけれど、しかし一個一個のメロディを構成する小メロディはたいへん好みだ。力強く、軍歌や宗教歌のように気持ちを持っていこうとする面がある。

それに、「未来」的な音素材の上にある種民族的な節回しのついたメロディがのっかるという構造がいい。この曲はとくにサンプルの使い方がぐっとくる。

歌詞のセンスも単語ごとでは好みだし、おいおい聞いていこう。