今日の一曲:水中、それは苦しい - 農業、校長、そして手品

水中、それは苦しい「農業、校長、そして手品」 - YouTube

・音楽への意味づけ
・共感の排除と普遍化の両立

 

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 僕たちは音楽を音楽そのものとして受け取ることが苦手だ。単なる仲間意識の確認手段として流行の歌を聞く——それはいわゆるJ-POPだけではなく、アニソンだとかロックとかあらゆる音楽ジャンルについてもそうだ。ほんとうはぜんぜんピンと来ていなくても、同じ価値観を共有していることを示したいがために流行ってるらしい曲を聞く。あるいは曲じたいにはピンと来るものがなくても、アーティストの見た目や言っていることに惹かれて作品を聞く。
 音楽を音楽以外のもののメディアとして受け取るという行為そのものはまったく責められたことではないだろう。そもそも音楽とはコミュニケーション手段だ。もちろん、そのもののクオリティを追及するというのもひとつの楽しみ方ではある。でも、目的として第一義に来るのはコミュニケーション——農業や狩りあるいは戦争の通信手段、祭りや儀式の一環、いっしょに歌い騒ぐきっかけ、大切な人への呼びかけ——だというのも否定できない。
 けれども、長い商業化の歴史を経て、音楽にはあまりに過剰な意味づけがなされるようになった。やれこれは難病に侵された天才作曲家が恋い焦がれた少女のために捧げた作品だの、自由を愛するシンガーソングライターが反戦を願って作った曲だだの、意味なしには音楽は存在できなくなった。そのなかで、本当は大した考えもないのに存在するための意味で飾られた曲がはびこり、聞く側も音楽とはそういうものなんだと慣らされていった。それは音楽以前に存在していたつながりの確認手段としての音楽が、それ自体を媒介にしたつながりの創出手段に変質したからかもしれない。脆弱な基盤にたつコミュニティは、自分が何者であるかを絶えず再確認し、他者に対しては排斥あるいは勧誘——過剰なコミュニケーションの試み——を行う。
 だからこそ、ここで改めていう。音楽はしょせん遊びだ。そこにはそれなりの意味があるかもしれないし、ないかもしれない。過剰なパッケージングはむしろ紋切り型の響きになり、ほんらいの意味を失わせる。

 音楽への言葉を通じた意味づけとしてもっとも利用されるのは、ポップスにおいてはやはり歌詞だろう。それでいて、個性的な歌詞=魅力として燦然と輝く歌詞というのはほんとうに数少ない。どこかで聞いたようなラブソング、あるいは破壊衝動の吐露をされても、それはまったく個性でも魅力でもない。むしろ音楽性の輝きを失わせるデコレーションにしかならない。かといって、ずっと「ラララ……」だとかスキャットされたりしても、それはそれで合唱やジャズといった特定のジャンルの限られた場合の手段でしかない。しかし、ボーカルをぬきにするとわざわざインストゥルメンタルだの冠をかぶらなければいけないことからもわかるように、ポップスとしての訴求力を保つには歌があったほうが有利だ。
 この点について非常に自覚的なのが、「水中、それは苦しい」だ(また前置きが長くなりました)。彼らのインタビュー記事を読んでほしい。5年前の記事になるが、今でもそうスタンスに変わりはないように思う。

特集: 水中、それは苦しい『手をかえ品をかえ』 - OTOTOY

 単純に読み物として面白いが、ここではとくに歌詞について言及している部分について注目していきたい。引用が続くけれどご容赦を。

ジョニー : そういうもの(引用者註:事実)を思いっきり叫ぶことで、別の意味が出てくるかなって思っているんです。すかした感じにはなりたくないんですよ。だから事実を思いっきり言う。あと小さいこととか、つまらないことを、ものすごい堂々と言う。「安めぐみのテーマ」に関しては前半はプロフィールで、後半はダジャレだけっていう感じで。

 

ジョニー : 例えば主語を、私や僕、俺とかにすると、世界が広がりづらいですよね。その人にものすごい才能とか表現力があれば、尾崎豊みたいなことにはなるけど、みんな尾崎豊ではないので。

 

ジョニー : そうそう、それ(引用者註:共感)キーワードです。共感しないまま、泣けたり笑えたり、グッときたりするもののほうがかっこいいと思っていて。共感にも限界があるんですよ。マンガやドラマでは、主人公に共感しないと分かりづらいものもあります。でも、自分とは全然違う立場や世界の話でもグっとくるものもありますよね。そういう作品には普遍的な要素が多いし、歌は特にそうでなくちゃと思います。
アナーキー : そのへん、井上陽水さんとかはすごいですよね。歌詞だけ見たらまったく意味がわからないものが多いけど。
ジョニー : 川沿いリバーサイドですからね。
アナーキー : でもずっと聞いていたいと思う。だから、そんなに切実な共感とかはいらないんじゃないかって思うんです

 

林三 : とにかく言葉はおもしろさを追求していて、あまり意味とかがあるわけじゃない。響きとかのおもしろさを目指しています。それに対して、音楽はかっこいい。

 彼らの歌詞は、意図的に「共感」から距離を置くことで普遍化を目指している。その具体的手段として、単なる事実(=固有名詞)やダジャレのような「つまらないこと」を歌うというのを採っている。
 マジョリティ的な共感を避ける方法は、ある意味簡単である。単純にマイノリティに振り向いてもらおうとして書く、これだけでいい。つまりある特定の人々にとって興味のある単語を用いる。たとえばファンタジー、哲学といった非日常世界を描いた歌詞がそうだし、アイドルソングやキャラクターソングなどというものは一般的な単語にファンにだけ通じる意味を持たせたりもする。
 ただし、上述の方法ではけっきょく共感の範囲をしぼっているだけの特殊化である。普遍の方向をめざしながら共感を排除するには、マジョリティに振り向かせようとしつつ、彼らが期待するものを提供しないという矛盾が要求される。まずそれにはごくごく一般的な単語を使いつつ、その単語に象徴的な意味を読ませないようにするという作業が必要だ。ヘタに意味不明なものを目指そうとすると、「かごめかごめ」の解釈論めいた意味の読み替えの連続によるストーリー創作が施される危険がある。さらに、自分の個性に頼ろうとしないという点もある。そうして採用されるのが、事実やダジャレ——とくに固有名詞や慣用句からの派生が特徴的——だ。
 個人的に、彼らの歌詞のテイストは「小中学生がふざけて作る替え歌や囃し言葉」と表現したい。彼ら自身ではなく彼ら自身の周りの世界について、音のおもしろさという意味以前の段階に重きを置いて作られるもの。

ジョニー : 音的にもめちゃくちゃなことはしてなくて、とにかく聞きやすくて、伝わりやすいもの。それでいてかっこよく、バランスのいい音でっていうことを心がけました。伝わらなきゃ意味がないというか、伝えたい部分を伝えることを目指しました。
林三 : ヴォーカルが叫んでいる分、演奏はわかりやすくしっかり作っている。そういうことは目指していますね。
アナーキー : 楽器も、アコースティック・ギターバイオリンなので、エフェクターもほとんど使わない。その分、アレンジでちゃんとしなきゃいけないってのが前提としてあるんです。エフェクターでごまかすっていうのが出来ないので。
ジョニー : 電気を使わなくても演奏できるので、ぜひいろいろな場所に呼んでほしいですね。

 普遍をめざすには、ポップスの文脈に依ったほうが有利だ。しかしボーカル+エレキギター+ベース+ドラムという編成にはそれ自体に意味がつくし、ジャンルも限られてしまう。そこから自由になりつつ、リズムをドラムで、コードをアコースティックギターで、ボーカルを支えるメロディをヴァイオリンで確保するというある意味必要十分な編成がとられている。
 そして、(ここからは各人のもともとの来歴が影響しているかもしれないが)アナクロになりすぎず先鋭的になりすぎないリズム・コードを持つ音楽として、彼らの音楽性は「エモ」(エモいとしてバズワード化したものではなく、オルタナティブの一文脈としての"emo"である)になる。彼らの代表曲「農業、校長、そして手品」のコメント欄には英語の書き込みが散見されるが、そのなかにalgernon cadwalladerとの近接性を指摘するものがあった。単純にそっちも好きだからだと思うけどなんかうれしい。

 最後に、これこそ音楽家が持つべき意識だと感じた一節を。

アナーキー : 自分でも説明に困るものを作れるっていうのはいいことですよ。
ジョニー : 説明できないからこそ音楽をやっているんだからね。
アナーキー : もしも言葉で回収できたら、別にちゃんとやる必要もないから。